読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ニャンジャ小屋

ニャンジャの隣にはサツマイモが転がってるだけ…。

美術ネコの夢 #4「猫大好き!藤田嗣治の生涯」

 

ニャハァーー!しかし何ですニャ…今日朝起きたら地震津波のニュースがやってて、びっくりしましたニャ~…近頃は地震も多く、いやな感じですニャー。

僕は普段、畑を耕したりしてるんだけど、地震の影響で作物が取れなくなったりすることはないよにゃ。。?

まぁ…地震の影響以前に、我がニャンジャ農園は今年は散々だったけどニャ…

里芋をイノシシに全部取られるわ大根かぼちゃの葉が虫にやられるわで、ひどい目に遭った(-_-;;)

ニャググ…来年は、カボチャ・トマト・大根を中心に飢えてく予定だニャッ。。

まあそんあこんなで、ニャンジャは頑張って日々を過ごしてますよにゃ。

 

そんなニャンジャが今回お話ししたいのは、「藤田嗣治」という人についてダニャッ!

 

f:id:nekokuro2510:20161122125053p:plain

 

藤田嗣治という人はご存知? たぶん、名前ぐらいは知ってる人が多いのでは?

ニャンジャもこの藤田さんについて調べるまでは、そのぐらいの知識しかなかったんだ。。

たぶん藤田嗣治って人は、日本よりもフランスの方で有名だと思います。というのも、この藤田さん、今から100年ほど前のフランスで大人気だった画家なんだから!

 

藤田嗣治は、1886年11月27日、東京府牛込区(現在の新宿区)に生まれます。

14歳のとき画家を目指すようになりますが、藤田さんは子供のころから絵を描くのが好きな人だったんだと思います。

 

父親は陸軍の軍医で、のちに「陸軍軍医総監」という役職にまでなった人物だそうで、とにかくすごい家柄に生まれたワケで、これはなかなか厳しそうな教育をなされたんだと思えます。もちろん画家になるなんて言ったら、大反対されたんじゃないかにゃ?

でもこの父親も、藤田さんの絵の才能は認めていたようで、結局3年間の約束で、フランス留学の許しを得ることに成功します。

それが1913年6月、藤田さん27歳のことでした。

 

僕はゴッホが好きなんだけど、ゴッホは生前は全く見向きもされず、注目もされずに若くしてお亡くなりになってしまいますが、この藤田さんはゴッホとは全く正反対で、メチャメチャ成功した画家だったんだ!

 

1913年の初めてのフランスへの旅で、港に着いた藤田さんは早速「ピカソ」と出会っています。そしてこの頃、モンパルナスの下宿で、「モディリアニ」や「スーチン」とも知り合いになってます。

なんだかもう、いきなりすごい有名な画家と知り合っていて、すごい成功するオーラがあるよニャ。。

しかし、異国の地での新しい生活に、期待と不安が入り混じっていた藤田さんですが、その翌年…

1914年7月、第一次世界大戦が始まってしまいます!

 

これにより、日本からの送金が途絶え、しばらく貧困生活を送ることになりました。

そんなこんなで、父親と約束した3年間はあっという間に過ぎてしまいますが、藤田さんは日本に帰ることなく、パリに留まります。

 

そして1917年3月、「フェルナンド・バレー」という女性と結婚します。

 

うーん…たぶん最初から藤田さんは帰るつもりはなかったんじゃないかニャ?

父親のほうも、戦争が始まってしまったため、それどころじゃなくなっちゃったのでは?

 

幸か不幸か、よく分からないけど藤田さんはここからどんどん絵を描いていき、成功しまくります!

 

1919年11月、「サロン・ドートンヌ」に宗教画を中心とした6点の絵を初出品し、これが全て入選しています。

ニャンと!?いきなりすごい。

そしてこの年、サロン・ドートンヌの会員にも選出されていますニャッ。

ニャンとも華やかなデビューを飾ったわけですニャ。。

 

1921年、多くの個展を開き、サロン・ドートンヌにも油絵を3点出品し、大好評だったらしいよ。イタリア旅行もし、このときローマ法王に謁見してます。

 

1922年には、前年制作した「自画像」をベルギー王立美術館が購入し、これが初めて美術館に収蔵される作品になります。お買い上げありがとうございます¥

ここからだんだん、ロイヤルファミリー的な展開になってきます。。わくわく

 

1925年、フランスから「レジョン・ドヌール勲章」を、ベルギーからは「レオポルド一世勲章」を贈られています。ニャンと…とうとう勲章まで贈られるとは、いよいよ面白いことになってきたよニャ。。

 

1926年には、フランス政府が「友情」という絵を購入します。にゃはぁ~~♨

もうなんか、絵に描いたようなサクセスストーリーぶりだにゃ。。

実際絵を描いてるしね。。

 

恐らくこの頃の藤田さんは、すっかりお調子に乗ってたんだと思います。

上流階級の夫人の肖像画をよく描くようになり、誰もが認める超一流画家になったんだにゃ!

社交界でも藤田さんは有名で、ノリノリで晩餐会や舞踏会に参加し、遊びまくってたんだ。

そりゃもう…勲章をもらったり政府が絵を購入しに来たりしたら、誰でも浮かれ倒しますにゃ~~。ましてやそこは享楽の都・パリ。遊ばないはずがない!

 

おかげで1927年、多額の税金を請求されるハメになりますが…

 

 

普通、画家に限らず、「芸術家」って呼ばれる人は、浮き沈みがあると思います。

まぁゴッホは沈みしかなかったけど(-_-;;)…

でも藤田さんの場合、ほとんど浮きしかないような生活をしますにゃー。。

1927年は、かの「ルーブル美術館」の、銅版画室(カリコグラフィ)に、銅版画の原板を収蔵されています。

ほんと、ゴッホとは正反対の華やかな画家生活を満喫してますニャーー!

 

でも、藤田さんはパリでは社交界の主役の一人にまでなって大成功しますが、日本ではイマイチ~な感じだった。

17年ぶりに日本に帰ってきた藤田さんは、東京で個展を開きますが、あんまり話題にはならなかったようです。

 

そして1939年、藤田さんは3度目のフランス訪問をしますが、その年の9月、ドイツ軍の侵攻により、「第二次世界大戦」が始まりました!

パリも壮絶な戦場になり、藤田さんはなんとかパリを脱出し、1940年日本に帰国します。

それからは主に、東南アジアにて、戦地の様子を描く従軍画家として活動するようになります。

東南アジアの戦場は、まさに地獄の入り口…どれほどの惨状かは、水木しげる先生の「総員玉砕せよ!」を読めばよく分かります。

 

総員玉砕せよ! (講談社文庫)

総員玉砕せよ! (講談社文庫)

 

 

 藤田さんも、「アッツ島玉砕」という絵を描いてます。

 

f:id:nekokuro2510:20161122140127p:plain藤田さ

 

他にも多くの戦争画を描いていますが、たぶん藤田さんは、日本でもフランスと同じぐらいに認められようと思い、一生懸命戦争画を描いたんだと思います。

きっと、ようやく祖国日本でも人気が出ると思ってたんでしょう……

 

ところが、終戦後の1946年、藤田さんは「戦犯」の容疑がかけられます!

なんとも皮肉。日本のために描いた絵によって戦犯扱いされるなんて…

 

理由はよく分からないけど、たぶん戦争画を多く描いて、その絵が国民を戦場に駆り立てるプロパガンダに利用されてたんだと思います。最初からそのつもりで、日本政府が藤田さんを騙してたのかも……そして用が済んだら戦犯として処理されて…

 

ってヒドスギ!!!

 

1948年、戦犯の容疑は無事にはれますが、たぶんもう藤田さんは、日本には失望しかなかったと思います。

 

1949年3月10日、アメリカのニューヨークに旅立ちますが、その後もう二度と藤田さんは日本に帰ることはありませんでした。

 

1955年、フランス国籍を取得し、日本の国籍は抹消し、日本芸術院会員も辞退してるとこをみると、本当に日本にはもう何の未練もなかったんだと思います。

 

1959年には、ランスの大聖堂にて洗礼を受け、名前を「レオナール」と改名してます。

とうとう日本の名前も捨てちゃったんですね。

 

でも、確かに気持ちは分かります。戦犯扱いされて使い捨てられ、評価もされない日本と、メチャメチャ大好評で迎え入れられ、勲章などもたくさんくれるフランスのどっちがいいかと言われたら、もちろんフランスのほうが30000倍ぐらいいいと思います。

 

藤田さんは、完全にフランス人になり、そして1968年1月29日、チューリヒ州立病院で、81歳の生涯を閉じました。

 

2月3日、ランスの大聖堂で葬儀が行われています。

 

これが藤田嗣治さんの生涯…なんとも不思議な人です。結局最後まで、日本では評価されなかったのは悲しい。

 

藤田さんと言えば猫と言われるほど、多くの猫を描いています。

生前、「猫は野生と家畜の両面の顔を持っている唯一の動物で、それが魅力的」だと語られましたが、たぶん単純に猫がすごく好きだったんだと思います。

 

藤田嗣治画文集 「猫の本」

藤田嗣治画文集 「猫の本」

 

 

 

 

 藤田さんの猫の絵は、かなりの猫好きじゃないと描けない絵だと思います。

藤田さんの描く猫は、しゅごく可愛い~~ !

僕もこのぐらいに猫の絵が描けたらいいと思ったよ。

練習しますニャッ。。

 

藤田嗣治さんに捧げるニャン。

 

ニャンジャ